命 -212ページ目

健常者と精神障害者の境界線

死への経路

心にもやがかかる。どこかが痒い。それがどこだかわからない。
だから腹が立ってくる。体中の中身がむずがゆくてしかたない。
この感覚に襲われた事があるか? とても耐えられたものではない。

薬を飲んでも落ち着かない、頓服を飲んでも効き目がない。
このままでは気が狂ってしまう、そうなるのだったらいっそ
死んでしまいたい!! このように思ってしまう。

  徐々に蝕んでいく場合もあれば、発作的に襲われることもある。
  自分が自分でなくなる瞬間がくるのだ。これが一番の恐怖なのである。


こうもなると、なんの歯止めも利かない。私が壊れた瞬間なのだ。
まるでピンと張った弦が切れたように弾け飛ぶ。
    これが私の破壊された瞬間、つまり気が狂った時である。

こうもなると、薬も家族も、自分自身は当然、なにをしようと
私の崩壊を止める事は不可能だ。

    私がまずする事といえば、「
  それも処方された分をまとめて飲んでしまう。

    次に試すは輸入品の「
  これは自分自身を落ち着けるために輸入販売で手にいれたものである。

    はがゆさから逃げられない場合、とりあえずもがいてみる!しかし、もがいてもどこが痒いのか、何が私にどうしろというのかわからない。パニック状態に突入である。

    こうなると、もう、一つの手段しか私の脳裏にはなくなるのである。

健常者から見れば、恐ろしく狂気的に思われるだろうが、私にとっては心の安定剤に近い存在・・・・・それが「かみそり」である。

    完全に麻痺している私には必要不可欠な存在となっていった。

これを読んでいる健常者の方にはきっと引く、又は、考えられない行為だとわかっている。
だがしかし、気づけば、自分の手首を眺めている自分がいる。
そう。私は私を切ろうとしているのだ。

切って流れる血をみると、「ぁあ、まだ生きてるのか・・・・」と快感に似た
安堵感を覚えるようになった。
  リストカットとは思っていない。私を待っているのは「」である。

去年と今年の関係

去年に比べて今年は・・・・

今日はクリスマス。皆が待ち遠しくなる一大イベントである。
私は小さい頃からイベントが大好きな子だった。
それが今年はどうだろう。

一年間ひきこもり。何もせず。

外の世界ではイルミネーションがここぞとばかりに輝いていたのだろう。
でも私は知らない。というよりはあえて避けたのだ。
外出もできない、何もできない、イブは母の誕生日でもあるのに、プレゼントすらあげれない。
テレビをつければクリスマスの楽しげな風景。そして幸せそうな町の人達・・・・
今年の私はイベントが嫌いな人間になっていた。
思えば今年は大好きなにすらろくに行けなかった。
毎日毎日部屋で寝ているだけの自分がどうしようもなく滑稽に思えたのだ。

友達からの誘いにものれず、そんな事では離れていく人もいた。
こんなにも悲しいことがあるだろうか。

 綺麗に輝くイルミネーションが見たかった。
 色んな人達と楽しく話がしたかった。
 母へのプレゼントも選びたかった。
 素敵な写真を撮って趣味の思い出に残したかった。
 
テレビをつけてもクリスマス特集がやっていれば即チャンネルを変えた。
前まで日課だったラジオもきっとそうだろうと思い、聴かなくなった。

どこもかしこも幸せそうな笑顔がもれているのが耐えられなかったのだ。

気が付けば、今日の「クリスマス・イブ
はもう終わっている・・・・
私の耐え難い苦しみがまたひとつ、過ぎ去ってくれたのだ。

今まで生きてきたなかで楽しくて仕方なかった事が全て否定的になってしまった。

         

私と私の関係

もう一人の自分

いつからだろう。夢と現実の区別がつきにくくなってきたのは・・・
前に一度記憶がとんでしまう時期があり、先生にはなしたが
薬の成分、副作用ではないかという事になった。
結局薬は軽いものに変えてもらった。

以来、眠気が薄くはなったが、それだけではなかった。
記憶が薄れていってしまってるのだ。
特に夜の記憶・・・・アルコールが入っている訳でもない。
なのに次の日、前の晩の事がはっきり思い出せないのだ。どれだけ考えても思い出せない。
だから私は、掲示板などをチェックする。しっかりと書いている。

きちんとコメントしてあって、更にしらふ以上にしっかりとした事を
かいているのだ。

こうなってくると自分ではない自分が存在しているようで仕方がない。
とても不安だ。

これは鬱の症状なのか、それとも薬の副作用なのか・・・・
始めの先生に聞いた時は「健忘症」と診断された。
だが今の自分の症状は、ちょっと忘れる、そんな程度ではないのだ。

前の日にとった自分の行動や言動がわからない・・・
私は記憶障害ではないかと自分で思っている。

それにしても自分の行動がわからないというのも怖いものだ。
気づいたら怪我をしていたり、覚えのない発言などがある。
怖くてしょうがない・・・思えば幼少の頃の記憶まで朽ち果てていってる。

このまま記憶があいまいになっていったら私は私ではなくなるのではないか。

   私が私を支配しようとしている。

一つの命とエゴ

生き物の命の重さ

まだ私が小さい頃よく動物を見に親の買い物について行った。
親は一通り買い物を済ますと必ずペットショップへ連れていってくれた。
そう。私は物心ついた頃から動物が大好きだったのだ。
毎回行っては物欲しげに親にねだってみたが、反応は「だめ」の一点張り。
何故だめなのかというと@世話ができない@死んでしまう@母が潔癖症のため、だった。それでも私は猫が欲しくて欲しくてたまらなかった。
思えばこの時は、動物も人間と同じ生き物だという認識は薄かったのかもしれない。

歳を重ねていくうちに、「飼いたい」という気持ちはだんだんとなくなっていった。
生き物の死を身近に対面する機会が増えたからだ。

生き物を飼うという事は家族同然に愛情をそそいであげなければならない。
そして、自分の都合だけでかわいがる事はタブーなのだ。
小さかった頃の私には到底無理だっただろう。
親はそれをわかっていたのだと思う。

今となっては飼いたいなどとは口にしなくなった。
生き物の命の尊さを学んだからだ。それに、今の私が例え飼ったとして、生き物の命を預かる責任が持てない。

上の写真の犬は某公園で「くぅくぅ・・・」と鳴きながら私に擦り寄ってきたかわいい子犬だ。

私は、抱っこしたり服の中に入れ気持ち良く昼寝
させたりした。まだこんなにも小さいのに何故1人なんだろう、としばらく考えた。もしかしたら、産まれてから責任を持てなくなって公園に置き去りにしたのではないか・・・・

そう思うと、私の服の中で眠る仔犬を置いて帰る事など考えたくなかった。いよいよ帰らなければという時間になり、仔犬を起こして服から出し、後ろめたさたっぷりで帰ろうとした時、仔犬は「くぅくぅ」と鳴きながらついてきたのだ。

あの時は本当に連れて帰りたかった。
結局連れて帰る事はできず、後ろ髪を引かれる思いで家路へと向かった。
あの子はその後どうなったのだろう・・・・と、今でもよく思い出す。

その事があってからは余計に私は生き物を飼いたいと口にしなくなった。言葉にはできないが、何かを学んだのだと思う。

作法と無作法の関係

いつからだろう

カセットが同じ台詞を繰り返すようになったのは。

私は小さい頃から親に反発する、生まれつき反抗的な子供であった
そんな私に母は散々手をやき、そして悩んできたことだろう。
私自身、母とは相性がよくないと感じていたくらいだった。
何をするにも耳にたこができるくらい同じ台詞を私に言い聞かせ
ちょっとした反抗にも大きく怒りの表情を見せていた。
私は、「なんで私ばっかり・・・」と心の中で母を批判していた。
遊びに出かけるにあたっても着替えて玄関を出るまで、母は同じ台詞を繰り返し続けるのだ。
それが嫌で嫌で仕方がなかった。何故なら、せっかくこれから楽しみに行こうという矢先、つまり、本来ならウキウキした気分で家をあとにするはずなのに
まるで、壊れたカセットの様に繰り返される母の言葉に耳を貸さなければならなかったからだ。

その壊れたカセットの台詞の意味を知り始めたのは高校に上がってからだった。
ある日私は友人の家へ遊びに行く事になっていた。
初めて訪れる家なので、私はしばし緊張していた。その日は友人と取りとめのない談話を楽しみ、すっかりいい気分で帰った。

次の日、友人からこんな事を言われた。
「お母さんがあの子はしっかりしてるわ」と言っていた、と。
私はこれといった差し入れを持って行った訳でもなく、簡単に挨拶を交わした程度だったのに・・・
なんの事だかわからないまま月日が経っていった。
そしてついに壊れたカセットの意味を知る時がきたのだ。

ある日、私の家に友人が遊びに訪れた。
私は訪れた友人を家に招き入れようとドアを開けた。友人は靴を脱ぎ、スッと部屋へと向かった。
その瞬間、長年私の中に潜んでやまなかった謎が解けたのだ。
そう、壊れたカセットの意味は、この礼儀の事だったのだ。
友人は脱いだ靴をそのままにし、ろくな挨拶もせず部屋に入っていった。
そうか、私とのあきらかな違いはここ、つまり常識的な所だったのか。

友達の家に行ったら靴は絶対そろえる!
入ったら必ず家の人に挨拶をする!
お菓子にはすぐに手をつけない!
遊んだら帰る時に必ず片付ける!

それが壊れたカセットの台詞だったのである。

どんなに意味がわからなくとも、いくら親が口うるさかろうと、そしていくら相性が合わないと感じつつも
母のしつけは完璧なものだったのである。

おかげで私はどこへいっても褒められる結果となっていた。
偉大なる、生意気なくらい反発をやめない私相手に、よくも根気よくしつけたものだとつくづく今さらにも感心するばかりである。

だがその母のおかげで、私はある程度良識のある人間になったと自負している。
    さすがは母、反発していた自分が恥ずかしい。

心理テスト

インスピレーションで答えて下さい

あなたは心理テストを信じますか?

私は良い事は信じ良くない事には知らん振り。
これから出題するテストにあなたも参加してみるといい。

  @紙とペンを用意する。
 今から言う色でふと浮かんだ異性(身近な方があたる)を書く。

  赤・オレンジ・白。紫・青
ここから下は診断結果になるので見ない方が良い。











            @正解@

   =兄弟のような人。
オレンジ=親友のような人。
   =理想の人。
   =色気を感じる人。
   =恋人にしたい人。



  どうだろう。皆さんは当たっただろうか?
私は定期的にテストして自分の心の内を自分自身で探る。
しかも定期的に行うと、その時点の人物が変わり面白さが増す。

作用と副作用の関係

私は薬常習犯のようだ。

1年通院しているが一向に良い方向にむかわない。
何故・・・・・。薬は強くなったり弱くなったりをさまよっている。
薬が弱いと気分の落ち込みや体調もしんどくなる。

さて、ここでどちらかを選択しなければならない。
@薬を弱くして普段の精神不安定に苦しむか。
@薬を強くして副作用の吐き気に苦しむか。

どちらも究極の選択だ。

しかし、今となってはどんな症状が出てもたいして気にならない。
きっと苦しみが私の生活の一部になってしまったからであろう。
神が与えた私への試練、つまりハードルなのだ
よく神様は「超えられる人間にしか試練を与えない」
などと聞くが、果たしてそうだろうか・・・?

神は本当に平等に人間の運命を振り分けているのだろうか・・
だとしたら、早く解放して欲しい。

この生活には限界がある。毎日家に引きこもり、色んな症状、副作用と闘わなくてはならないからだ。
薬を使えば治る風邪のように、メンタルの病気には薬だけでは簡単にはいかない。
いわゆる当人の治そうという努力、知人、家族の
サポートが必要になるのである。
今の私には充分すぎる程の家族のサポートがある。
  
    これはとても有難いことなのだ。

純粋な疑問

植物物語

よくCMなどでやっている植物物語。
とても体に優しく作ってあるのだろう。

だがしかし、私には、何年経っても解決しない問題がある。
それは99%が植物の成分だとしたら残りの1
%はなんなのか??


誰かこの難題を解いてくれないだろうか。
もしくは責任者からご説明頂きたい。

ふと思った私であった。

矛盾と葛藤の関係

決断できない人間の性

矛盾=二つの事柄のつじつまが合わない事。
葛藤=二つ以上の対立する欲求が同時に働いて、そのいずれを
        選ぶか迷う状態。ジレンマ。

私は鬱病に侵されている。他にも多種の病気に侵されているが比較的鬱がひどいであろう。
病院へ行き、鬱と診断されてからはや1年経とうとしている。
始めの半年間は友人のいる県外へ、後半の半年は実家へ。

家族は皆私の病気を知っている。
そしてまるで腫れ物に触れるかのように接してくる。私自身嫌ではない。

症状の一つとして突然気絶する事がある。
なんの前ぶりもなしにだ。
立った瞬間@歩き始めた瞬間@振り返る瞬間等・・・
自分で予測できるならばともかく記憶が途切れてしまうから誰にも助けを求められない。
日中は母が常日頃私を監視しているため、私が気絶すると飛んでくる。
そして、迅速に対処してくれるのだ。

1番始めに倒れた時は、さすがの母もあわたふためいたであろう。
しかし、今となってはさすがに慣れたのか、すばやい対処で介抱してくれる。
今となっては、慌てる様子もない。頼りになる母。
しかし、私の中である矛盾葛藤が生まれた。
心配かけたくない自分と心配して欲しい自分が共存し始めたのだ。

安心させたいと思いつつも倒れてしまう自分と心配して欲しいと甘える自分。
充分に「矛盾」している。
この「葛藤」が私を混乱させる時がある。頻繁に・・・・
だが、気絶は病気の症状の一つ。
私自信にもコントロールできる訳がない。かといって今更母があせる様子も見当たらない。
つまり、私は甘えたいのだ。
「寂しいからもっと心配して。」いい歳した人間がこんな事が言えるはずがない。
私も大人。甘えないと決めたらとことん貫くのが当たり前である。

   だがもっと甘えたい。

このジレンマが私を悩ませている。

これも病気のせいなのか・・・?

天国と地獄の関係

人の行く末は・・・

よく死んだらどっちに行くかなどという話しを耳にする。
私の聞いた一説ではやはりうまく神様が平等に振り分けをしているらしい。

良い行いをしていた人間にはもう一度人間に。
悪い行いをしていた人間には人間以下の生き物或いはモノ
に選択されてしまうらしい。

つまり良い行いをし続けた人間は幾度となく人間を経験する事ができるということになる。

悪い行いをした人間は罪が軽ければ動物</>、或いはその類の生き物に選択されるという。
罪や悪い行いをしたものはそれ以下のモノや雑草、短命の生き物、もしかすると家電製品にさえなりかねないという事になる。
さて、前者だが、古代からの有名な人間達はこれに属するのではないか。
幾度も人間としての経験を重ねていくうちに自然と生きる知恵を身に付け、歴史的人物になりあがっていくのではないだろうか。

そう思えばやはり人間生きていくうちで良い行いをする事は自分に褒美が帰ってくるのだ。それが天国ではないか。
そして後者は短命な地獄へと自らコマを進めているのではないか。


そして思う。神の決めた定めは本当に平等なのか・・・