命 -210ページ目

私の苦悩と母の関係

私の望む事

今日は朝からもんもんとしている。その理由が一つわかったのだ。
それは、母とのコミュニケーションがない、つまり「会話」である。
一言も話さないまま今日は終わった。とはいってもこんな事はザラだ
今に始まった訳じゃないし。

だが前回述べたように今の私には「寂しい」という感情が強い上、外界とのかかわりがないため、余計に、もんもんとするのだ。吐き所がないためか。

母は母なりに気を使って私をそっとしていてくれている
だが今はそれが裏目に出てしまっているのだ。どうしたらいいのだろう。
「話しかけて」と、改めて言うのもおかしい。

それに、母からみたら私は不機嫌に見えるのかもしれない。
何故かというと、逆に感じる時があるからだ。私は、母が機嫌悪そうにしてる時は絶対に話かけない、近づかない、これにつきるのだ。さでもなければとばっちりを受けるから。

母も私に対してそう思っているのなら誤解を解きたい
私の顔は怒ってるのが地顔なのだと・・・・・
親子なのだから互いに似た所があってもおかしくはない

結局何が言いたいのかというと、私の今の「寂しさ」を埋めて欲しいのだ。
兄と話すように私とも話して欲しいのだ。
ただ一つ、私は「蚊帳の外」には慣れている。

素直な私と見えない母の関係

一つの効果

以前にも書いた様に、私は一つの事に対して 素直 になった。
今でも自分で褒めている。自画自賛である。

今日は1日寝て過ごした。過食から逃げるための寝逃げである。
朝から私はもんもんとしていた。その精神的な負担からか起きるのがしんどかった。そしたら母が薬を飲ませてくれた

有難いしとても助かる。私にとっての看護婦である。

だが、朝市で母と口を利かない日は 気分も落ち込む。何故だか・・・・。
今朝も多分そうだったと思う。「思う」と表現したのは、記憶が曖昧なせいだ。
そう。私はついさっきの事ですら忘れてしまいがちなのだ。
これも「健忘症」のせいか「記憶障害」のせいであろう。

話は戻って、母。今朝は話していないはず。さでもなければこんな気持ちにはならないからだ。夕飯時に私は起きた。母のいる台所へ行ったが、
私が薬を飲んでても一言も話さなかった。私から話すにはネタがない

1日中部屋で寝ている私には、どうせ症状がひどいやら、薬の話題等、他愛のない話題しか持ってないからだ。母は色んな話がしたいのだろう
だから兄とは盛り上がれるのだ。二人の楽しそうな話し声を聞くのは好きだ。
でも私がそこへ入ったら、きっと別物に(おとなしく)なってしまうだろう。

それに母は、口には出さずとも毎日私の体調を見ているし、機嫌を伺ってる。
私は昔から言われる。怒っているのか、と。  とんでもない。
これは地顔なのだ。怒っているように見えて 心は躍っているのだ。逆に母に対してそう思う事もしょっちゅうある。そんな時は絶対話しかけない。いきなりきつい返しを返され、傷つきたくないからだ。

母は、そんな私の相手、世話をして苦労してるであろう。
だが、「話さない」という事がこれほどまでに、体調や精神的に影響するとは思わなかった。病気になる前は 私も反抗して口をきかなかったものだが、今は逆になっている。一人の人間として扱って欲しい。

これは私のわがままだろうか。母には理解しがたいだろうか。母は、そんなにも私と話す事が苦痛なのか。

     私にも、普通に話して欲しい。

アイテムと秘密の関係

昨晩・・・・

私はもんもんとしていた。年末年始は賑やかになり、皆も休みに入る。そして、なにより食べ物の流通が盛んになるのだ
私にとってかなり危険な期間である。

我慢していても、目に見えているものを我慢するのは辛いものだ

母は気を使って今年は買い込まずにいてくれた。というよりうちはおせち自体を食べる人がいないのだ。
唯一食べるのが私と母ぐらい・・・・そう考えると母にはおせちを我慢させてしまった・・・・・のか?
だとしたら 申し訳ない事をした。又罪悪感・・・・・。

それを考えてもんもん・・・・。

しかし、私はこの期間過食はしていた。もちろん、冷凍食品や買ってきたおせちをだ。だが、過食のパワーはあっても嘔吐がうまくいかなくなってしまったのだ

焦る・・・。食べた分吐き出さなければ焦る・・・・。そしてムシャクシャする。何度もトイレへ行くが、何も出てこない。

私はイラついてきていた嫌気もさしてきた。薬を飲んで一休みしたが、それすら吐き出さなくては と焦りばかりが募る。

自分の部屋でしばらくもんもんとしていた。
そして、ふとあるモノが頭をよぎった。そうだ。あの秘密の「かみそり」だ。

私は静かにソレを取り出し、しばらく刃を眺めた・・・・
きっと気持ちが楽になるに違いない。そう思ったのだ。

そして、すっとソレを手首にあててみる。そうしながらもんもんとしている理由を頭の中でひとつひとつ付け足していった。みるみる切る気がおきてきた。
そして、考えすぎた一つの頭はボカンと「パンク」した。
      これでキレタワタシの完成である。

手首に当てていたソレをすすぅっとてまえに引いてみる。
そしてもう一度同じラインを引いてみる。ズキっ・・・・・
もう一度、すすぅ・・・・・・ズキッ・・・・・
何度も何度も繰り返すうちに痛みが感じられなくなってきた。

そして鮮やかな赤い液体がにじみ出て腕へと流れていった。
 なんとも言えない感覚。すっきりしたわけではないが、ついさっきとは違う。
私は中毒なのか。これは一般に「リストカット」とよばれるものに値するのか。
いやいや違う、私は快感が欲しくて、落ち着くために、やっている訳ではない。

  「」に近づこうとしているのだ。

さいきんでは痛みすら感じなくなってきた。無論、多少の痛みは伴うが。
 切って自分の流れる血を見てしばらくぼーっとする。
 あーまたやっちゃった。あー血が流れてる。
 あーもっと血が出ないかなぁ
あーこのまま・・・・・・

母と私の微妙な関係

慣れは微妙


病気発覚したての頃から、母は当然家族全員だが、皆優しくなった。
特に母は1番ずば抜けて私を心配していた。
そんな母に不満を感じるようになったのは、少し前からである。

無論、私の体調が悪ければ気にかけてくれるし、しんどい時は薬も飲ませてくれる。まるで病院の看護婦の様だ。始めのうちは一分たりとも私から目を離さなかったが、今は違う。

微妙に母は変わってきたのだ。もちろん余裕がでるのは当たり前だが、
なんだか違う。時折孤立していた頃に戻ってしまった気になるのである。
何故だろう。始めは自分の気のせいと思っていた。

だが、やはり違うのだ。なんだか妙に「寂しい気持ちになる。
孤立とまではいかずともやはり寂しい。何故だろう。病気のせいか・・・
母は母なりに私に気をつかっていてくれている。なのに、急に冷たく感じる時があるのだ。

母だって人間、嫌な事辛い事だってあるだろう。思わず顔にでてしまう事だってある。それは重々承知の上だが、やはり私の寂しい気持ちは消せないのだ。

母が私の病状に慣れてきたのは素晴らしい事だ。頼りになるし、心強い。
でも、「いざ」って時でなくとも構って欲しいのだ。もっと気にかけて欲しいのだ。そう。私はわがままなのだ。

元からなのか、病気のせいなのかはわからない。とにかく今は寂しい事に不安を感じているのが自分でわかる。これはさすがの母にも伝わっていないだろう。

母からの干渉がなくなると、鬱々してしまう。外界からの刺激がないため余計にそう思うのだ。これはどうやって解決しよう。

しかし、自分が「寂しいんだ」と認める事ができた自分を褒めてあげたい。

家族と私の病気

私が・・・

病気になってから私の家族はガラっと一変した。家族を装うようになったのだそれまでは皆バラバラだった。だからそれは事前に口裏を合わせての結果だろう。私にはお見通しである。
だがあえてそれには触れない。作り物だろうと今の私には必要な環境だと感じるからである。

私が部屋にいても向こうの部屋からみんなの話し声、笑い声が聞こえる
これは見えない私の薬なのだ。時には特効薬にもなる。すごい薬。
この事に皆は気ずいているだろうか。ある意味気ずいてるであろう。
だって演じているのだから。

そして私に対しても腫れ物に触れるように接してくる
甘ったれの私はコレにはまっている。というより安心している
なんだかホッとするのである。存在があるという・・・安心感

今まで私はこの家の邪魔者とずっと思っていたから余計にそう感じる。
そう。私は今この一家の一員なのだ。

上の二人は厳しく育ててきたものを、私が全てぶち壊してしまったから
この一家から浮いていた孤立していた
私自身嫌ではなかった。一人には慣れていたからだ。
だがしかし、今は違う。私はこの家族の一員なのだ。でもよく考えてみたら病気が完治すれば又家はバラバラになるのか?という事である。
それを考えるとなんだか不安になって仕方ない。

駄々をこねる様だが、嘘でもいいから続いて欲しい
私の病気と関係なく。だからといって治らないのはもっと嫌だが・・・
微妙に難しい問題である。最近こんな事を考えている自分であった。

失ったモノと私の関係

私の1年

決まっていた仕事は何ヶ月もかけてようやく手にいれたものだった。それも奇跡的に。私は鬱の事をなるべく考えないようにして職場へ向かった。研修期間である。だが、「」はそう簡単には私の思うようにさせてはくれなかった。
症状が出てしまったのだ。不調に加え、人が怖いのだ。たまらない気持ちでなんとか行っていたが、限界はすぐにきた。わずか1週間で退職する羽目になったのだ

悔しかった。ものすごく悔しかった。あんなに苦労してやっと手にした仕事だったのに・・・!悔やむ私に母は「無理する事ない。体の方が大事なんだから」と慰めてくれた。

それからの生活はガラっと一変した。私は外に出ず引きこもるようになったのだ。
外でもしあの人間に逢ってしまったら、その友達に逢ってしまったら、私は鬱である自分が他人から見て「おかしい人」と見られていると思い込んでいる

毎日家にいるだけで何もできずいた。そんなある時である。昔の友人と交流ができたのは。その友人は県外に住んでいた。私は、そこへ逃げようと咄嗟に判断した。とりあえず、友人の連休を利用して逃げ込ませてもらった。

だが日にちは経つものである。帰れば又私は部屋から出なくなった。この土地にいるだけで怖くて、不安に駆られるのだ。私はしばらく友人のもとで暮らす事になった。

向こうでの暮らしは快適だった。何にも捕われず、好きな時に好きな場所に行けるのだ。しかし症状は消える事はなかった。日によって体調を崩す事もあった。鬱の症状と薬の副作用で自由がきかない事もあったのだ。でも苦ではなかった。少なくとも自分の土地にいるより遥かに。

そんな生活が半年も続いた頃、症状に異常が見られた。気絶する様になったのだ。貧血でもなく、突如気を失うのだ。その原因は先生にもわからなかった。
そして不調が続き、遂に私は実家に帰る事となった

そして先生の勧めで「」と「心臓」の精密検査を受ける事となったのだ。
私的には、何か病名が付いて欲しかった。そうすれば対策が打てるからだ。
なのに、結果は異常なし。愕然とした。私は何故気絶するのか・・・・

今でもそれは続いてる。調子がよければ1週間は倒れずに済む。だが、予測もなしに失神は起きる。いつまでこんな生活が続くのだろう

結果と暴露の関係

初の診療

どこの精神科も予約がいっぱいで何ヶ月待ちなど ザラだった。私には仕事が決まっていたので(年始からスタート)そんなに待ってなどいられなかった。そこで予約なしでOKという近隣の心療内科を見つけ、早速行った。

病院嫌いなだけに近寄ろうとも思わなかったが心療内科など行く事事態初めてなので、不安で怖かった。診療は始め、簡単な筆記テストからだった。正直に書き込み提出した。しばらくして先生から呼ばれ、診察室に入った。結構年がいってるであろうその先生は私を重症の鬱だと診断した。そして話をしているうちに、摂食障害不安神経症起立性低血圧症過換気発作などと色々な病名を口にしてきた。私が覚えてるのはこれくらいだ。


まずショックだったのが。「」の単語だった。産まれてから大きな病気などしたことがない私にとっては信じがたかったのだ。更に、身近になった人がいない病気、「鬱」。ほんとなのかと先生に反論したかった。だが、先生の話を聞いてるうちに鬱という病気の症状に私が一致した事で認知した

私は自分が鬱病などといわれるとは思ってもみなかったのでショックが大きかった。嘔吐が癖になっていたので、もっと内科的なものだと勝手に思い込んでいたのだ。更に病名がつくとは想像以上の結果だった。私は認めなかった。自分はたまたま鬱病に似た症状があるだけでほんとは違う簡単なものなんだ、と。第一病気など縁のなかったものだから余計に。

診断書を書いてもらい、処方箋を受け取り帰った。そして、考えた。頭の中は「鬱」という言葉でいっぱいだった。テレビやメディアでよくとりあげられている病気。名前は知ってはいたが、正直どんな辛いものなのか理解していなかった。私の偏見では、怠けているような、ゴロゴロしているような、そんな具合に見ていたのだ。思えばこの時の私には近いものがあった。

何もしたくない何もいらない人と関わりたくない監視の目を気にする、等。考えて考えて最終的に答えを出した。それは、親に言うかどうか、だ。黙っていればわからなかっただろう。ただの怠け者、気分屋、と思われていたに違いない。だが私はあえて「言う」方を選択したのだ。何故か自分が病気になった事に罪悪感があったからだ

深呼吸をして、母の所へ行った。そして自分が鬱病である事、それが重症な事を泣きながら伝えた。始めは素っ気無く聞き、単調に質問をしていた母も、だんだん言葉が柔らかくなり、しまいには泣き始めた。私も泣いていた。二人して泣いた。ただ一つ、母は勘違いをしていた。私の病気の原因が自分にある、と思ったようだ。私は私なりに必死で否定したのだが、母も混乱していたらしく聞き入れてはもらえなかった

母を泣かせてしまった・・・・・ショックだった。これまでに、私の事で頭を悩ませ、泣いた事はあったろうが、こうも目の前で泣かれた事がなかったから尚の事、私は罪悪感でいっぱいになった。そして追い込まれてる気分になった。母は泣き止まない、私は苦しさに耐えられず、泣いている母を残して自分の部屋へと戻った


疲れ果てていた。理解者もいない、事情を知っている人もここにはいない、母を泣かせてしまった罪悪感、鬱の症状。もう「限界」などという単語では片付かない程疲れている状態だった。私は二つ、母にお願いをした。
  @特別何かをしてほしくない
  @人に言わないで欲しい
母は了解してくれた。でも私にはわかっていた。母が誰かに話す事を。さすがの母も一人では抱えきれないだろうと感じていたから。だから責めるつもりなど毛頭ない

    ここから私と病気の闘いが新たに始まった。

私とワタシの関係

序章

H16年、1月、ある晩苦しんでいた。なんとも言いがたい、息苦しさに似た感覚である。動悸も激しかった、ついで言えば情緒不安定で涙も溢れていた。一体どうしたんだろう。私は何に緊張してるんだ?軽く考えればそれまでの出来事のせいなのだろうが、何か違う。気がした。体にも異常があったが、何よりこの激しい動悸が私を焦らせていたのだ。

生きてきた中でこんな風になるほど動悸が激しくなった事はない
まるで体全体が心臓になったような、味わった事のない感覚である。耳も遠くなり視界もチカチカとし、気持ちが散漫して、何をどうすればいいのか、何かを手に持ってもその先にどうするのかがわからないし、目には見えない何かに襲われるような気までして、大パニックだった。あの時の恐怖は今でも忘れられない。まるで、トラウマができた時のように。

私は混乱しながら部屋をうろついた。安定剤である音楽を聴いても治まらないのだ。そこで初めて気ずく。                                ワタシハオカシイ。                                                   震える手で「家庭の医学」の本を取りに行き、自分の症状と比べてみた。が、しかしわからない。混乱してたせいもあるかもしれなかったが・・・・・。
どの項目にも自分がハマってしまう気がしてどうにかなりそうだった
そうしているうちに頭の中である決意が生まれた。そう。私の大嫌いな病院である。インフルエンザになっても行かない、あの病院にだ。

瞬時、考えは彷徨った。行きたくない私と怖くて行かなければという私が喧嘩を始めたのだ。だが いとも簡単に行く方が勝利を収めた。何故なら、この時の私は完全にキレテいたからだ。

ありとあらゆるページをめくり、私に何が起きたのかを調べつくしたつもりだった。が、気持ちが錯乱してるせいもあり、私は本をほおり投げてもがいた。本なんて何の解決にもならないのだ。その事に気づいたのだった。とにかくこの苦しさから解放されたい!!このままでは死ぬ!!そして私は近隣の病院の番号を調べた。この状態で私はこのまま朝を迎える事となった。


そして朝、近隣の大きな病院へ向かった。病院なんて久しぶりなものだからカードではすんなり入れず、問診表を書かされた。あるがままを書き、カウンターへ持って行くと、「ここでは無理です。」といわれ専門の外来訪問の場所を教えられた。そこでまたも問診表をみせると「この病院では貴方は診れない。他の病院を紹介する」と言われたのだ。なんの事やら状況が飲み込めなかった。

しかし、紹介用紙を見て謎は解けた。私がかかるのは「精神科」なのである。

驚いた。正直にショックだった。ショックが大きすぎて言葉が出なかった
病んでいたのはやはり心だったのか。そんな事をぼやきながら放心状態で歩いて帰った。何もする気もせず、何もしたくない、何もいらない、全てをめちゃくちゃにしたいと思った。家の人にはばれてなかったため、私は又普通を演じなければならなかった。しかし、この時ばかりはさすがに無理であった。だから部屋から出ずにいた。この時にも体をかきむしりたくなるような感覚に襲われ、気がおかしくなっていた


    そして私は、精神科のある病院を探す事となったのだ。

引金と親友の関係

三が日

私は生きていた。生き延びてしまったのだ。そして呆然としていた。昨日の夜はなんだったのだろう。繰り返し繰り返し思い出していた。そして自暴自棄に走っていた。友達と飲めば簡単に潰れた。どうでもよかったのだ。何が起ころうと私の中にいる「私」という人間は死んだのだから

私はあの唯一の公園へ向かっていた。そして一角のベンチに腰を据え、ひたすらじっとしていた。そして時折涙ぐんだ。園内は小学生、犬の散歩、子供達の遊び、多々の人で賑わっていた。私はその中にポツンと1人でそれらを眺めていた。無心だったと思う。今ははっきり思い出せないが。そして何かを待っていたのだ。今ではなく昔の自分達である。有り得ないのは承知なのに私はひたすら待っていた。

陽が暮れ始め、賑わっていた人達も次々と姿を消し、しまいには私一人となっていた。寒さも一層増し、体の芯まで冷え切っていた。怪我の後遺症である指先もジンジンと痛んでいた。けれど私は震えながらも動じなかった。「ひたすら」とはこういう事を言うのだろう。

そして、遂にその時が来た。あの人間が来たのだ。予測で寄ってみたらしい。私は微動だにしなかった。その人間は言った。「なにしてんの、ここはもう俺達が来ちゃいけないんだよ。」と。ここは私の唯一の居場所なのに・・・・・

そしてその人間は私を帰らせようと腕を掴んだ。と、その瞬間!私の中で大晦日の夜のことがフラッシュバックとして蘇った。あの、私の胸ぐらを掴んで殴りかかろうと拳を上げられた事を。恐怖と寒さのあまりに私は混乱を通り越してパニックに陥った。そしてその人間は腕をつかんだまま私を引きずったのだ。怖くて怖くて錯乱状態だった。それでも帰ろうとしない私に 痺れを切らしたのか、あろう事にその人間は私の顔を掴み上げたのだ。何も言えない状態までに。あれはまるで男同士の喧嘩そのものだった。  わたしはそれでも顔を背けていた。私が待っていたのはこんな人間ではなく、昔の二人だったのだ。

もう絶望的な気分だった。いや、その時の事はもう正確には思い出せない。結局その人間は私をおいて帰って行った。私は恐怖で気が狂いそうだった、いや、もう狂っていたのかもしれない。恐らく、すでに狂っていた。私は泣き続けた


しばらくすると、軽い足音が聞こえ、私に前でピタッと止まった。見上げるとそこには小さな、小学生くらいの男の子が立っていたのだ。彼は「よかったら飲んで下さい。」と言い、ホットのウーロン茶を渡してきた。私がお礼を言う前に走り去ってしまった。
あれは誰だったのだろう。知り合いでないのは確かだった。もしかすると、一部始終を見ていたのかもしれない・・・・私はそのホットのウーロン茶を抱き、しばらく泣いた。人の優しさに触れて感極まったのだ。

そして、又近くに車が止まったかと思ったら、今度は私の親友が現れた。彼女いわく、あの人間から電話がきて、「もうやるだけの事はやった、後は頼む。」と告げたらしい。まるで遠まわしに 迎えに行け といわんばかりだったと。彼女は事情を察して、優しく「帰ろう。」と言ってくれたのだが私は強情にも応じなかった。が、しかしこのままでは彼女まで巻き込んでしまうと思い、帰る事にした。まるで長年住み慣れた場所から去らなければならないような気持ちで

ここを奪われたら私の居場所がなくなってしまう。ここからが新たな戦いが始まる。

私と兄の関係

気ずかなかった

私は3人兄弟の末っ子だ。上は兄が2人。末っ子の女の子1人という事もあり、私は比較的上の2人に比べ、甘やかされて育った。
だが、小さい頃私はこの兄2人の存在が邪魔に思えていた。何故なら私を邪魔者にするからだ。だが、遊びたいがために仲間に入れて欲しくていつも後ろを付いて回っていたものだ。しかし、兄達にとっても小さくて付いてこれない女の私が邪魔だったのだろう。
かくれんぼをすると言っては置いていかれ、探検と言っては置いていかれ、家で遊ぶにしたって私だけはじかれる事が多かった

それがいつからだろう。兄達に執着しなくなったのは。小学生・・・・高学年あたりだろうか、自然と兄達に近寄らなくなっていった。
私は私なりに同学年の子達との遊びに夢中になったからだ。

中学に上がるころにはまともに口をきく事もなくなっていた。おかしな表現方法をすれば、兄達に興味がなくなっていたのだ。そして時間が経つにつれどんどん疎遠になっていき、しまいには他人のようになっていた。だが高校に上がった頃には何故か多少口をきくようになっていた。不思議なことである。きっとだんだんと私が大人への階段を登り始めたせいだろうと、今となっては分析している。つまり、兄達とのレベルが近づいたという勲章なのだと私は解釈している。

かといって、行動を共にする事はなかったがそれなりに慕っていた。そして高校を卒業し、フリーターとして働く頃、やっと大人として扱われるようになった気がして嬉しかったのを覚えている。

今1番上の兄は結婚をし、家から出た。なので真ん中の兄と二人である。この兄は上の兄と違い、引っ込み思案で実に内向的、更に私とも対照的な性格だ。しかし親族の中でも親しみを持たれ、皆から好かれている。その皆の中には私も入っているのだ。

何故だかわからないが、次第に私はこの兄を異常に慕うようになっていった。それはまるで、魔法にでもかけられたように・・・・。今となっては、休日に兄に出かける気配があるとなんだか寂しい気持ちになる。「私も連れてって」と言いたくなってしまう。一体私に何が起きたんだ・・・? 私はブラザーコンプレックス=ブラコンなのか??
一度じっくり考えたことあった。しかし、根本的な原因は見当たらなかった。

そうだ!私はブラコンなんだ!そう認めたら気持ちが軽くなったと同時に認めた自分の素直さに感激してしまった。この年になったからそう思えるのかもしれないが、私にとって兄はかけがえのない存在となっていた。兄は兄なりに、今の私の病気を気にかけてくれている。不謹慎かもしれないがそれが何故か無性に嬉しくてたまらないのだ。そうだ。私は兄が好きでたまらないのだ

これからもっと仲良くなりたい、絆を深めたい、今はそんな気持ちで一杯である。
兄ももう少しでいいから私とでかけたりしてはくれないものか
。作戦を練っている。