命 -211ページ目

存在価値と疑問の関係

例えば・・・・

私という人間が生きている。そして私に似通った人間がたくさんいる。
その中で、グレードはあるのか??
私の価値ってどのくらい?。と、ここ何年か友達に聞いてまわっている。答えは皆それぞれ。外見、中身、センス、思考、学力・・・etc・・・
貴方はどうだろう??私は・・・・わからない。そう。未だにわからないのだ。この年になってもまだわからないのだ。

私という人間が生きていて何の価値があるのか。

私がいるから世界が回ってるわけでもなしに、何故私は存在するのだ。
もし私がこの世からいなくなったら?よくこう考える。
きっと泣いてくれる人がいるだろう。家族、友人、深く知り合った人達。
            
                で?

泣いてくれて綺麗に埋葬されたとする。しばらくはみんなの心に私は存在するだろう。楽しかった事や、ぶつかり合った事、たくさんの思い出。

私がわからないのはここからが本番だ。皆、私が死んだ時の涙をいつまで流すのだろう。泣きっぱなしの人間はいないと思う。
親族は身近に位牌がある訳だから、長くひきずるであろう。
しかしその他はどうだろう。時間が経てばもとの生活に馴染んでいく。それだけの事なのだ。

私は自分の価値がわからない。今の私は何のために生きているのか。
何かの役にたっているのか。具体的に考えてみる。・・・・

・・・・やはりわからない。そうとなると、今私の生きてる価値など皆無に等しい。皆はそんなことを考えたりしないのか?疑問でしょうがない。

生と死の狭間の関係4

新年の始まりは・・・・

最悪である。3で述べたように私は路頭に迷う羽目になったのだから。だが、私の中に眠るある決意は一層固くなった。
凍えそうに寒い中、私はあるモノを手に入れるため、コンビニに入った。そして、それを見つけると颯爽と購入し、いそいそと出た。
向かうはあそこ。以前私がいつも行くと述べていたあの公園

そこで、電話がかかってきた。事情を知っている唯一の人である。その人は私がどうなったのか心配でかけてくれたのだと思う。しかも嫌な予感もしていたのだろう。その通り、私がアレを手にいれた直後だったから驚きである。

その人はこれまでの事情を知っていたし、私も頼って甘えていた。私は、その時の一通りの話をした。あまりの矛盾にその人は怒りをあらわにした。私以上に・・・・。修羅場に足をつっこんでいる私を助けられない事にもどかしさがあったのだと思う。

電話の前に、あの人間は車で私の跡をつけていた。そして私が気づくと近寄り、「話を聞け。嘘なんかついてない」と言った・・・さっきそれで5分ともたなかったくせに・・・そうするとその人間は今度は泣き真似を始めたのだ。なんと情けない人間だ・・・つくづくあきれ果てた。
何を言われようと信じない私に 思ってもみない事態が起きた。

その人間が「なんで信用しないんだ。」と私の胸ぐらを掴み上げ、顔を殴ろうとしてきたのだ。それにはさすがの私も引いた。
まさか手をあげるなんてっ!ショックだった、これだけでも充分傷が深まった。その人間とは昔からある約束をしていたからだ。その約束とは、「暴力はもう使わない。」と。そこだけは守ってくれると思っていた。だが、それは私の思い違いだったのか。

フラフラと私は歩き始めた。そう。あの公園に向かっていったのだ。もうあそこしかない。あそこしか居場所がない。その時、バックの中には先程買ったアレがあった。さっきの事で決意は充分ついた。中身を取り出し、光る刃をジーっと眺めた。「これでいいんだ。もう傷つくのには疲れた。誰の事も信じれない。このままじゃ私はあの人間に殺されるかもしれない

疲れきった体でぼんやり夜中の公園にいた私。その刃を左手にあてがおうとしたその時。あの友人から電話がきたのだ。聞かれるままに私は答え、何をするのかをも伝えた。当然、友人は聞き流す訳がない。今から行こうかとも言ってくれた。私は泣きじゃくっていた。夜中の公園に女が1人で泣きじゃくっている。はたから見たら、おかしな光景だっただろう。

結局なんの犯行も犯さず友人の説得で自分の家へと帰った。しかし、私は変わった。変わってしまったのだ。人間不信、恐怖、困惑、混乱。
人間嫌いに拍車がかかった。もう誰にも止められないだろう。

そしてその日から私にはお守りができた。かみそりという危険でありながらも精神安定剤になる心強い唯一の身近な味方。

今でも、あの夜の出来事がフラッシュバックとして蘇る。

生と死の狭間の関係3

人生最期の日

1と2で述べたように、私は今夜でこの世を去る
普段どおりに起き、念入りに部屋の掃除をした。カウントダウンを誘ってくれた友達にはそれとなくあいまいに返事をしておいた
私にとっては「」へのカウントダウンになるからだ。

この日の午前中は親友の病院に付き合った。普段出不精でめんどくさがりの私がこの日ばかりは親友に逢っておかなければ、と決めていたからだ。親友は薄々感じていた様にも思われた。私を見る目が、いかにも心配をしていたからだ。

それをさておき、診察が終わったら意味ありげに別れを言い、私は帰った。
そして、お風呂に入り、体の汚れを全て拭い去った。
丁寧に化粧をし、お気に入りの服を着て、夕方あたりに家を後にした。

始めは誘ってくれていた友達の所へ行こうと考えていたのだが、そこである人間からの電話が入った。私は駅の近くにいたのだが、その人間のあまりの矛盾と憎らしい発言に腹が立ち、私は大声で電話口へと怒鳴っていた。あんな自分を見たのは私自身生まれて初めてだった。それもそのはず、私は壊れていたのだから。

結局その人間が迎えに来て、私は渋々車に乗った。今思えば何故車に乗ってしまったのか・・・・
それからその人間は、自分に都合いい事を話し始め、いかにも自分が被害者の様に語り始めた。
そしてある約束を私とした。
       @嘘はつかない
そう決めて5分もたたないうちに その人間は、信じられない様な嘘をついたのである。私は思った。「この人は嘘をつきすぎて何が本当なのかわからなくなってる。」と。そしてその瞬間私の手に静電気のような痛みが走った。それもそのはず。私はその人間を殴ったのだから。
殴られた方も、「当たり前だ」という様なことをぼやいていた。何故反省しないのだろう。何故人を傷つけてると気づかないのだろう。腹がたって煮えくりかえりそうでしようもなかった。
それでも話を聞こうとしたらまた簡単に嘘をついたのだ。私はもう一度殴ろうとした、が、かすってよけられてしまったのだ。
それどころかその人間はキレ始めていたのだ。そして私を睨みつけたのだ。信じられない・・・・

家を咄嗟に飛び出し、歩いた。その人間は危ないから、ともっともらしい言葉を放ち、私を引き止めた。それを振り払い、私は歩き始めた。
その人間も諦めたであろう・・・・・・・・・

まっすぐ家に帰る事もできなかった。何故なら12時をまわっていたから。世間では楽しい、めでたい元旦になったのだ。
私は死へのカウントダウンを逃してしまったのだ。

生と死の狭間の関係2

死の前日

前回にも述べたように、私は自殺を覚悟していた。去年の今日。
部屋をきれいにし、持ち物を整え、友達達にそれとなくメールを送り、
先の約束を、友達としないでいた。それもそのはず、
私は来年にはこの世にいないのだから

死に方の選択はいくつかあった。私的には、苦しまずにすんなり逝きたいと思っていたため、まず睡眠薬が頭をよぎった。
友達に医療関係がいたので、私は電話をかけ それとなく睡眠薬はないかと尋ねた。友達はある事にはあるが何に使うのかと、私に詰め寄った。この友達は このときの私に自殺願望があることに 気づいていたからだ。
結局睡眠薬は受け取る事ができず、その友達に怪しまれながらも電話を切った。

どうしようか・・・・。綺麗に死ぬ方法は他に思い浮かばない。
ただ家族に、いや、人知れず孤独に死にたいという信念はあった。
できるだけ長く時間を稼ぎ、誰にも知られないままこの世を去りたい、
こんな気持ちでいた。ついでに言えば、しばし私が消えた事に誰にも気ずかれずにいたい、そう考えていた。


そう。この時私はすでに気持ちのうえでは死んでいたのだ。
だが、私が死んだ事によって何かが起こる確信はあった。
私の現状を知っている友達がアクションを起こしてくれると信じていたからだ。

私をここまで追い詰め、死に至るまで追い込んだ人間がいるのだ。
先に述べた友達はそれを全て知っていた。だからこそ睡眠薬を渡さなかったのである。この友達は事情を知っていたが、私以上に一人の人間に恨みを持っていた
私の気持ち、それまでに受けた辛い事柄を知っていた。私にとって 唯一心を開ける友人であったのである。

何度かすがりついた事があった。何度も泣きながら電話をした事もあった。
友人は、自分の都合を後回しにしてまでも狂っていた私に付き合ってくれた。
普通なら見放すであろう私なんかをほってはおかないでいてくれた。

心配をかけている事がわかっていても、既に正常な感覚からはずれてしまった私はめちゃくちゃになっていた。
死にたい、早くこの世を去りたい、これ以上生きていく力などない。傷つく事に疲れた」友人にも毎日こう漏らしていたくらいだったのだ。
先に述べた、私をここまで追い詰めた人間。何も知らずにのうのうと生きていた。普通に友達達と遊んでいたのだ。
つまり、私がここまで、死を考えているとは到底考えていなかったのである。その事が尚私にを覚悟させていた。
私は思っていた。今年で全てを終わりにしよう。自分を解放しよう。
そしていよいよ私にとっての生の最期の日が訪れる・・・・・・

生と死の狭間の関係1

どうしてここまできたのか。

H15年、私には色々ありすぎた。感情面、行動面。
壊れ始めたのは春前からだった。突然泣き出したり、意味も無く不安になったり。
自分では「情緒不安定」だと簡単に思っていた。しかし今思えばその時期から私は病気に侵されていたのかもしれない。自分の感情をうまくコントロールできていなかった。突然泣き出したり、落ち込んだり。それは行動にも出ていた。突発的に嘔吐したり、引きこもったり、アルコールに溺れていた時期もあった。更には胃の具合の変化や顔面麻痺。そしてらしからぬ失敗も。

アルコールから脱出する頃にはもう夏だった。私の大好きな夏
夏はそれなりに楽しんだ。

だが問題はここから既に始まっていたのである。
私の情緒不安定はとっくにピークに達していた。秋口には又アルコールに溺れ、自分を見失っていたのだ。
自分が何をどうしたいのかがわからなくて息苦しかった。

そしてなんだかんだで自分をごまかしつつ毎日を過ごし、いよいよ年が明けようとしていた頃。自分の存在価値について考え始めていた
もし私がこの世からいなくなったら何か変わるんだろうか。誰か悲しむのだろうか。

複数の人にこの質問をしてみた。が、私を頷かせる答えは出てこなかった。無論、わかった所でどうしようとも考えなかったが。しかし、考えなければならない出来事が起きたのだ。重ね重ね色んな事があり、私は全て絶望していた。そして思ったのだ。「いなくなろう。全て終わりにしよう。
限界を取り越していた私には正しい判断だった。

そして、12月31日。今日で全て終わりにしようと思っていた私は、朝から親友に逢い、思い残す事のないように仕組んだ。
悲しい事、切ない事、耐えられない時に、私には決まって行く公園があった。そこだけが唯一の私の場所だったのである。

全てを終わりにするため準備は万端だった。
近くのコンビニで手に入れた「かみそり」。これで私は全部終わりにできる。カウントダウンと共にこの手首を切ってさようならにしよう。
そう考えていた。

そしていざ、年が明け、私の全てを白紙にできる瞬間だった。
友人からの電話。その友人は私のそれまでのいきさつを知っていて心配でかけてくれたらしい。そして懸命に私の説得に取り組んだのである。
おかげで私は手首に傷一つ残さずに家路へと帰って行った。
こうしてタイピングをしている私が存在するという事は、生きてしまった。
 

    又1年も生き延びてしまったのだ。

過食と嘔吐の関係

再発した病

ここ2~3日過食嘔吐に悩まされている。これも私の中に潜む一つの病気なのだ。夏中は何故か過食嘔吐をせずにすんでいた。
過食する事が恐怖だったのだ。何故かといえば、食べたら嘔吐しなければならないという固定観念があったからだ。

それなのにここ2~3日急激に過食が始まった。
自分でも理由がわからない。そしてもやもやする。
その悪循環がたまらなくしんどい。止めたくとも止まらない。
それが過食。それも決まって夕飯時である。まるで細い線がパチンと弾け飛んだように切れる感覚だ。切れたらもう手の施し様がない。目に映る全ての食べ物を口につめこむ。そして普通なら適度であろう量では気がすまないのだ。むしろ頭の中は、既に嘔吐する準備が万端になっている
味覚や見た目などもう気にならない。とにかく口に詰め込むのだ。体が限界のサインをだしていても完全に無視。
すでに気分が悪かろうとそれも無視。
ただひたすらに詰め込む。

次第に、そんな事をしている自分が情けなくなってくる。何故こんな事をしなくてはならないんだろう・・・・頭のどこかではこう考えていてもほぼ大体が過食の意識に負けてしまう
そして、家中の食べ物をしらみつぶしに詰め込み終わるとそのままトイレへ・・・

そうだ。私はそのまま嘔吐しに行くのだ
一度GOサインが出て過食してしまったらこれが落ちになる。始めのうちは指を口に突っ込んで吐いていた。が、今となっては手ごと喉まで突っ込む様になった。だから今は吐きだこがない。

それでも私なりにポリシーがある。
母の手料理には手をつけない。母が作った料理を一度口にいれてそれを出すなんて、そこばかりは私にも守るべきゾーンだった。

しかしそのポリシーまでもここ2~3日でついに破ってしまったのだ。
今はその事の自己嫌悪でいっぱいだ
もともとは、私がこんな病気になんてならなければ母の手料理に後ろめたさなど感じず食べれたのに。つくづく自分の存在が嫌になる。

嘔吐している時にもそう考えていた。時折一緒に出てくるを見て涙が溢れて、それでも頭の中は詰め込んだモノを吐き出す事に占領されてしまう
早くここから抜け出したい。もううんざりだ。

     私は摂食障害に侵されている。

母と娘の関係

母の背中が小さくなったのは・・

私は小さい頃からは生意気だった。特に母親は手をやいていただろう。
悩んでいただろう。何もかもが嫌になった時もあっただろう。

高校生から始めたバイト先は居酒屋だった。
当時の私にとっては何もかもが新鮮で興味深く、新たな世界だった。
夜の仕事となると、当然遊びも変わってくる。
仕事が終わってから遊びに行くという事で、始めはマメに家へと断りの電話を入れていたが、それもそのうちなくなっていった。
しかも、次第に帰る時間も次の日の昼まで延びるようになっていったのだ。
母はさぞ心配しただろう。ただでさえ治安の悪い土地柄だったし、それも夜中となると・・・・・
私にはその心配が煩わしく感じていた。

そしてついには家に帰らないだけでなく、学校へも行かなくなった。
そうなると今度は担任が私の友達にガサ入れを始めたのだ。
これには驚いた。どうにか友達が口裏を合わせてくれていたからよかったものの、どこにいても干渉されているような気がしてたまらなかった。もっとも、たまらない思いをしていたのは母と担任の方だが。

そんな状態がしばらく続いたある日の事。
私は用事があって家へ帰った。母と顔合わせをするのが気まずくて素早く家を出ようとした瞬間、私は凍りついた。
ついていないTVに向かって三角座りをして首をかしげた母の姿があったのだ。
その背中には生気が感じられず、まるで抜け殻だった。
 母の背中はあんなに小さかっただろうか。
私はなんとも言いがたい気持ちになった。母の背中をあそこまで小さく儚げにしてしまったのはこの私なのだ。原因が私なのはあきらかだった。
なのに私は何もできずその場からすぐにも出て行った。
そう。私は逃げたのだ。最悪である。あんな状態の母をおいていくなんて。

その後、話し合いの場が持たれ、お互いの意見を言うことはあったが、
母のあの姿は忘れられない。
 小さい頃は大きくて頼りがいがあってなんでも来いのあの母の背中を
 こんなにも小さくしてしまった私は最大の親不孝者である。

 だからこそ思う。これからは私が守らなければ、と。

薬と検査の関係

私の夏

H16年、夏、私の大好きだった夏はシーズンかけて検査、病院めぐりだった。
原因のわからない気絶の検査ゆえの病院通いだったのだ。
心療内科では原因不明なため、近隣の大きな医療センターへ紹介状を書いてもらった。大きい病院だからこそ 人が多く、全ての検査には全一ヶ月を要した。

 @神経内科で 脳波(睡眠)     @循環器内科で ホルター心電図
        MRI                 心エコー
 @内科で   CTスキャン             心電図

    この様に検査の嵐だった。
あちこちの病院と検査のたらいまわしにされ、精神的にもかなり限界がきていた。
そのうち、精神的にも体力的にもピークが訪れ、家の中をうろつく事すらしんどく感じていった。
心療内科には週1で薬と診療のため通っていた。だが、
限界を感じた私は、その診察すら苦痛に思うようになった。
ある時、薬がきれた。私はこの薬の存在の大きさを知る事になる。

薬がきれ一晩がたった翌日、なんともいいがたい気分だった。
無気力、脱力感、嫌悪感、吐き気、頭痛、筋肉の痛み、めまい、立ちくらみ。これらの症状が一気に私に襲い掛かってきたのだ。
体温も低下し、自分の思うように体が動かせない。呼吸ですらまともにできない。動悸も早くなり、完全に頭の中ではパニックだった。
パニックとは裏腹に 私の体は、死人のように冷え切っていた。
そして自分でも「死」に似た感覚を感じとったのだ。

結局母が薬を取りに行ってくれた。あのとき母が病院に行ってくれなかったら
私はどうなっていたんだろう・・・・・
そう考えると 今の私はすでにこの世にいないのではないかと思う。

そして、検査が全て終わり、結果を聞きに行った私は愕然とした。
何も異常がないと医師から告げられたのだ。あれだけ精密に検査したはずなのに、何もないなんて・・・・・ある意味信じられなかった。
      何もなくて何故気絶する?
この後も私の失神は未だに続く・・・・・・。

熱帯夜と気絶の関係

始まったのは・・・

自分の生活リズムが夜型になってしばらくしたある夜。
あれは熱帯夜の事だった。
私はいつものようにパソコンに熱中していた。鬱になってから何にも興味が示せなかったが、今の私には必須アイテムである。

特に寝不足だった訳でも、体調が悪かったわけでもない。
トイレに行こうと立ち上がりドアに手をかけた・・・・までは覚えている、が、しかし、気がつけば家族が私の顔を覗き込んでいた。
しかも上から覗き込んでいたのだ。
私は部屋の出口で倒れていた、その時にものすごい音がしたらしい。
それに目をさました家族が私の様子を見にきたら、見事に扇風機を倒し、それと同時に私も倒れていたという事らしい。

「らしい」という表現は、どういういきさつで自分が倒れたのかがわからないからだ。

気がつけばひっくり返っていて、皆が私を覗き込む・・・心配そうに驚いた顔で。あたまと右半身がズーんと痛み、意識がもうろうとしている。そして体中がしびれている。
訳がわからない。そう。私は私が倒れた事すらわからないのだ。

ドアに手をかけたまでは覚えているが、そこからの「私」がさっぱりわからない。
家族いわく、ものすごい音がしたと。

混乱と受け入れがたい自分の体勢、そして原因がわからない・・・・
    一体私に何が起きたんだ・・・?
その日を境に、私は頻繁に気絶するようになった。
  トイレに行こうと立って親の横を取りすぎようとした瞬間にも同じことが起きた。しかし、私には記憶が無い。なので毎回母から後付に聞くのだ。
冷蔵庫を開けようとして、手をのばした状態で後ろに倒れたり、
起きて立ち上がろうとした時に倒れたり・・・・・必ず後ろに倒れるという。

 倒れる時にも記憶があればいい。しかし私は記憶がない。

 
起こされた時には別世界から帰ってきたような、不思議な感覚になるのである。

だから私からしたら、何故皆が私を見て驚いているのかがさっぱりわからないままだ。これを機に私は頻繁に気絶するようになっていった・・・・

音楽と私の関係

H16.12,25(土)

この日、夕方5:30本当なら私は
新木場コースト
ライブを見ているはずだった。

私が敬愛する「LIV」の
ライブだ。
この日のチケットを取るために
あれやこれやと手回しをし、
やっと手にいれたチケットだった。


この日をどんなに心待ちにしていただろう。

この日のために体力がつくよう毎日ストレッチをし、
何を着て行こうかワクワクしていた。

しかし、私が想像していてものとは裏腹に、体はついてこなかった。
そう。体調を崩してしまったのだ。
ライブの3日前、私は携帯とにらめっこをしていた・・・・・
迷っていたのだ。行きたくて行きたくて仕方なかったライブだからこそ、悔しくて断念したくなかった。
どうしてこんな時に限って体は意地悪をするのだろう。

悩んだ末、私はこの新木場コーストでのクリスマスライブを諦める事にした。
この時の悔しさは言葉にならない。

この日まで、私のエネルギーの源となっていたライブは
いとも簡単にこうして幕を閉じたのである。

  「音楽は私のエネルギーの源」

 これを絶たれては生きている実感すら沸かなくなってしまう。
私が元気な健常者だったら・・・・悔しい・・・・
これでしばらくは、目標が無くなってしまった。そう思うと一層体調にも響く。残念で仕方ない。何を目標にして生きていけばいいのだろうか。

大袈裟かもしれないが、今の私にとってはそれ程大事なイベントであった。